2001.1.15
反資産デフレの政治経済学 序文 −戦略的資本主義の構築のために−
 
はじめに

 新しい世紀の扉が開かれた。世の中はいつもと変わらない新しい春を迎えた。しかし、通常の感受性をもった人なら誰でも21世紀が途轍もなく激しく揺れ動いている時代の途上で始まり、これから起こるであろう大変化についての予兆を感じているのではないか。それが、明るいものであるか、暗いものであるかは各人によって受け止め方は異なろう。

 私は、子供の頃から、「繁栄した国家や文明は数々あれど、繁栄し続けたものは一つも無い」という言葉を繰り返し聞かされて育ってきた。私の父渡辺美智雄の口癖だった。そして、「日本の政治家の使命は、如何にこの国の繁栄を長続きさせるかだ」という強い決意も同時に聞かされた。

 彼は1995年にこの世を去ったが、日本が長期衰退のトレンドに陥っているのではないかという大きな危惧の念を抱いていた。表裏一体のものとして同時に起こった冷戦構造の崩壊と日本のバブル大崩壊に、この国の政治の対応が後手後手に回ってしまったという反省も合わせて持っていた。

 日本の平均株価の最高値は1989年、ベルリンの壁が崩れたその1ヶ月後の大納会であった。80年代後半を通して日本に流れ込んだ資金が、90年代初めには統一ドイツや市場経済のロシアに注ぎ込まれるべく日本から出ていくのである。そんな時に、お金の蛇口を締め続ける窓口規制や総量規制といった政策をやり続ければどうなるか。効果てき面を通り越して資産価格の大暴落を招くことは必至だ。グリーンスパンFRB議長が「バブルは急激に潰してはいけない」という日本の教訓に学んでいることは確かである。

 渡辺美智雄は1990年秋には警告を発し始めた。なぜなら既に株価は暴落の様相を呈していたからである。翌91年、金融当局による量的規制が本格化するが、その年の秋、自民党の総裁選挙に立候補した彼は「もう手遅れだ」とはっきり演説の中で言っていた。

 総裁選で予想以上に得票し、宮沢内閣の副総理兼外務大臣となった父は、92年5月予期せざる病に倒れ入院・大手術のやむなきに至る。丁度その頃から株価が下がり始め、同年8月には、株価が14,300円台まで落ち込み、平成時代第1回目の金融不安が起こったのである。当時彼が病院のベッドの上から主張したことは、徹底した不良債権の早期処理と日銀による量的な金融緩和、及び財政再建を唱えた元大蔵大臣としては相当の決断だったが、赤字国債の再発行そして、デノミネーションの実施であった。

 具体的には、銀行が保有株式の含み益を全部はき出してでも一気に不良債権の償却をやってしまうこと、日銀は銀行の持合株式をおおよそ八掛ぐらいで担保にとって銀行に融資をすること、などを提案した。そして不良債権・担保不動産の公的機関による時価買い取り、資本不足に陥った銀行に優先株を発行させそれを公的資金で買い上げること、などについて有識者の知恵を借りながら検討を開始したのであった。


平成金融恐慌の勃発

 私は96年に代議士に初当選をしたが、翌97年11月、三洋証券の会社更生法申請にともなう戦後初めてのコール市場でのデフォルトに遭遇した。その時、「これは平成金融恐慌の勃発だ」と断じ、「優先株の買取機構」を創設してなかば強制的に銀行の資本増強を行わなければパニックは回避できないと主張した。

 山一・拓銀の破綻が起こるまでは世間の関心も薄かったし、大蔵省幹部は反対意見の方がはるかに強かった。なぜなら、当時国会では預金保険法改正で特定合併(例えばなにわ銀行と福徳銀行)を可能にする法案を審議していたし、大蔵省の財政・金融分離を目玉とした行政改革の骨格作りが大詰に来ていた。そして国会での最大の争点は赤字国債を減額するための財政構造改革法の成否にあったからである。また、国民感情として、住専処理のために6,850億円に上る公的資金を投入したことへの反発は、なお厳しいものがあった。

 このように、組織の存亡がかかり、また政治的リスクが極めて大きい時に、住専処理に投入した公的資金をはるかに上回る規模のスキームは、考えようがなかったと言えるかもしれない。つまり、マーケットが疑心暗鬼につつまれて機能不全になっている時に、政府はもっと機能不全に陥っていたということだ。

 当時、大蔵省銀行局のある幹部が私にこんな言葉をもらした。「渡辺さんの案は無理だよ。日本には非常事態という概念がないんだ」。これぞ正しくこの国の本質を言い当てている言葉ではないか。要するに日本は国家の体を成していないのである。国家を運営する政治体制がその真価を問われるのは非常事態に臨んだ時なのだ。しかし、憲法のどこにも書いていないことを官僚にやれと言っても土台無理な話である。かくなる上は政治家が腹をくくってやるしかない、という覚悟のもとに、自民党に金融安定化対策本部と保岡小委員会が作られたのであった。小委員会における第一回会合のプレゼンテーションは、私が行った。その後、紆余曲折はあつたが、私の提案は金融安定化法や金融機能早期健全化法となつて実現し、危機回避に貢献することができたのは不幸中の幸いであった。


真の政治主導とは何か

 本来この種の危機管理対策は、まともな憲法と当り前の政治体制があれば、タテ割タコツボ型システムを越えて総理官邸が中心となり国家戦略をもって行うべきことである。ところが日本では政府に都合の悪いことは与党に丸投げして「与党主導」の政策決定や政治決断が行なわれる。また与党も世論に過敏に反応して、政策形成に積極的に介入しようとする。「そごう」のケースが典型だ。ここに「政治主導」という概念の混乱が生じ、一体誰が最終決定権限をもっているのかわからなくなってしまうのだ。「政治主導」と「政治家主導」とは、まったく異なるものである。 

日本の政治システムが2001年1月よりスタートした中央省庁再編の中で「無責任の体系」を脱却し、真に政治主導の体制を構築できるか否かが今問われている。政治主導の体制とは、とりもなおさず、与党と政府、内閣と各省庁との責任と権限の区分を明確化するとともに、特に、平成金融危機に見られたような有事には、担当省庁にぎりぎりの知恵を出させた上で、内閣が強い政治的意思と正確な方向感覚を持って事に当たる以外にありえない。与党の代表者から構成される内閣は政治的、行政的な最高責任を負うべきものである。

他方、与党の、政策上の関与は最小化されなければならない。与党の関与が大きすぎると、内閣の位置付けが軽くなり、議員と官庁との不透明なネゴをはびこらせ、逆に官主導体制を助長させる。官主導の体制は、国民に直接、政治的責任を帯びる立場にない官僚と、責任意識の希薄な内閣及び与党の、無責任の連合体である。

 要は政治の体制が、政府・内閣の中枢で政治決断をしていく政治家のスターを育てることをせず、派閥システムに減私奉公しておれば自動的に出世の段階をのぼれる慣行を作ってしまったことに問題の根があったのである。日本の総理の在任期間は一年か二年であり、大臣にいたっては半年から一年が普通である。これはまさにスターダスト・システムというべきものであり、日本の民主主義の実体過程の根幹を形成してきた。与党には、こま切れ大臣を経験して、やたら細かい事に詳しい「族議員」がはびこり、業界の利益を表出する。役人は与党の根回しに奔走し、自ら作った原案を多少の修正を余儀なくされるが、基本的に官主導を持続する。いくら中央省庁再編という大改革をやってみても、それは車のボディーのモデルチェンジにすぎない。問題は時代のスピードに応じて走れる新しいエンジンを、旧式ポンコツエンジンに変えて搭載できるかにかかっているのだ。


資産デフレの衝撃

 本書は、90年代初頭のバブル崩壊を契機として始まった、資産デフレが日本経済に及ぼす影響に先ず、視点を当てる。しかし、この平成デフレは、従来型不況とはまったく異なるものである。戦後これまでの不況のほとんどは、リセッション(成長の一時的後退)に過ぎないものであったが、今回は、土地を始めとする資産価格の大幅かつ持続的な下落に最大の特徴がある。フローの経済変化を論じることの意味は失われた。企業も、家計も、そして政府までもが、各々のバランスシート(貸借対照表)に、問題のすべてを抱えることになった。

さらに、平成デフレは不況の問題から、システムの問題に発展した。日本型資本主義と呼ばれるものを構成する、メインバンク制、株式の持ち合い、終身雇用などの日本型慣行のすべてが崩壊の淵にある。これは、91年12月のソ連崩壊後の、ロシアの混迷に相当するといってよい。ただし、ソ連崩壊が政治体制の瓦解から始まり、誰の目にもはっきりわかる出来事であったのに対して、日本の場合は経済の変革が深く進行しており、現在でもなお、それを認めたがらない人々が多くいるところに大きな違いがある。

なぜ日本が、かくもダメになったのか。多くの論者はあれこれと饒舌に語るが、本書は、その原因を、資産デフレ、なかでも土地本位制の崩壊の一語で説明していく。あえてこれに付け加えるとすれば、経済のグローバル化がアジア各国の市場経済化を進め、日本の物価も、実は、80年代の半ばより、むしろバブルの一時期を例外として、継続的な下落が進んでいたことだ。

日本型システムの淵源は、30年代から40年代の統制経済に行き着く。需要過剰とインフレ基調が体制の前提であった。これは戦後の高度成長期や、その後の安定期においても、原理的変更はなかった。段階的な規制緩和が行なわれたに過ぎない。90年代に入るまで、土地本位制に揺らぎはなく、これに依拠してきた金融システムも安泰であった。30年前後の金解禁不況の一時期を除き、昭和の日本人はどっぷりとインフレの中でしか呼吸をしてこなかった。

しかし、この日本型システムは、インフレには高い柔軟性を持っていたが、デフレにはそうではなかった。インフレからデフレへの転換は、政治的にも危機を生み、責任と権限の所在を明らかにする必要性が、政治・行政システムの改革を促すことにもなる。既に述べた通りだ。

資産デフレが各経済主体のバランスシートを直撃し、巨額の過剰債務や不良債権を発生させたが、従来の正統的経済理論では、市場原理によってハードランディングを実行する以外に、処置の方策は見出せなかった。ましてや、問題が、メインバンク制や株式の持ち合いなど、日本型システムの根幹を揺るがすようになってくると、思考停止の状態に陥っていく。マクロ経済の回復と規制緩和、さらには、株価維持策の再開などというように、政策的手詰まり感は歴然としてくる。さらに、政治・行政システムの混迷は、政府内部からの大胆な政策提言を萎縮させ、日本の閉塞状況を生んでしまった。



反資産デフレの政治経済学

平成大不況の影響は、根源的でかつ永続的である。そこで、大恐慌時代の30年代欧米の経験や、日本の戦後の大インフレとの対比など、歴史的検証のなかで問題を捉え、現代日本経済の病巣は何か、取るべき政策の原則はどうあるべきかを論ずる。その上で資産デフレの根本治療のためには破壊シナリオや延命シナリオでなく、第三の道、即ち「一度死んで蘇るスキーム」を提案する。これは正に総理官邸を中心に政府と中央銀行が共通の危機認識のもとに国家戦略として位置付けなければ成功し得ないものである。政策がひとたび法案化されるならば、与党もまた機関決定を経て、実現に全力を傾注することになる。これまで取られてきた景気対策の立場が、マクロ経済の回復にあわせて資産デフレ問題を収束していこうとする内科的処方であるのに対し、このスキームは、外科手術である。外科手術には大きな痛みを伴うが、今、求められているのは、日本の病巣は切除するという、勇気ではないだろうか。

最後に、「戦略型資本主義」を21世紀初頭の日本の繁栄を担保する中期戦略として、その具体策を提案する。

 また、80年代から90年代の日本を特徴づけるもうひとつの軸が、経済のグローバリズムであった。

これは、世界の多くの国々の経済成長を促す原動力になる一方で、日本を含め、経済・金融を不安定化させた元凶でもある。グローバリズムは拒絶できないが、盲信は極めて危険である。グローバリズムは経済の単なる現象ではなく、米国の国益を背景にした政策である。この認識に立ち、グローバリズムを相対化しながらどのように国内的安定を確保するかの視点が、この「戦略的資本主義」に付け加えられなければならない。


 本書の執筆は、「平成金融問題研究会」との共同作業となった。この会は、官民の各界で働くメンバーが、それぞれの所属する組織の見解や立場とは離れ、一切の政治的見解からも自由になって、個人の知恵を直接にぶつけあう会である。日本にはまだ、官にも民にも国益や公益への高い志をもった良質の知性が健在であることを分かってほしい。あとは「政」がいかにその知恵を実現していくかにかかっている。

新世紀の冒頭にその責任の重大さを痛感する。